インタルード――連続応答の趣旨と本コーナーの「価値自由」性に寄せて
折原 浩
2004年2月27日
森川剛光氏と山之内靖氏への「応答1」のあとを受け、ほかの各位への応答をつづけていきたいと思いますが、そのまえに、筆者による応答の趣旨と、このコーナーの性格との兼ね合いにつき、ここで一言、管見を述べさせていただきます。
筆者はもとより、他方の主当事者である羽入辰郎氏の応答を待ちながら、橋本氏の呼びかけ(ちなみに、氏がどういう範囲で、誰と誰に呼びかけられ、応答を求められたのか、筆者は事前に相談を受けていませんし、事後にもまったく関知しておりません)に応えて寄稿された(あるいは今後寄稿される)各位の応答内容にも、それぞれを所与として受け止める立場で、できるかぎりお応えし、そうすることをとおして、問われている問題そのものにたいする認識を広げ/深めると同時に、相互間でも討論を盛り上げていきたいと願っています。他意はまったくありません。
ただ、各位の寄稿に(結果としてあるいは)筆者ひとりが連続的に応答していく形になりますと、なにか「橋本氏と組んで『ヴェーバー研究問答教室』を開いている」といった印象が生じ、ことによると(なにかにつけ「政治的意図」を勘繰る向きには)「折原もまた、このコーナーへのヴェーバー研究者の結集を促し、一極支配を目論んでいるのではないか」というような、あらぬ疑いをかけられかねません。筆者自身は、なにかことを始めれば、思いがけない誤解を受けたり、誹謗中傷にさらされたりするのは世の常で、そうしたことを気にしていたらなにごとも始められないと承知していますから、なんといわれてもかまいません。論争の一方の当事者、また、一ヴェーバー研究者/ヴェーバー関係著作の一執筆者として帯びている責任/社会的責任を、精一杯果たしていくのみです。
しかし、かりにそうした印象や誤解が生ずるとすれば、それは、本コーナー開設者の橋本努氏にとって、また橋本氏の呼びかけの趣旨に賛同して応答を寄せられた(あるいは今後寄せられる)各位にとって、たいへんご迷惑なことでしょう。このコーナー自体が、開設者および応答者の自由を損ねる、なにか「(学界政治的)集団形成」のメディアであるかのように見誤られ、逆宣伝され、ひいては応答者の範囲を狭めることにでもなったら、とても残念です。
そこで、各位の寄稿に筆者がお応えするのは、けっしてそうした「集団形成」を目論むものではなく、まったく逆に、羽入書の「自殺要求」は断固しりぞけつつも、「生産的限定論争」の平面で、自由な討論による「多極形成」をこそ目指すものであると、ここにはっきり、明示的/一般的に宣言し、これから試みる一連の応答内容の質によって、この宣言の妥当性を具体的に裏付けていきたいと思います。じじつ、「応答1」における山之内靖氏との対決は、主当事者の羽入辰郎氏にたいするのと同様、あるいはそれに優るとも劣らず苛烈であったと読者は受け取られたにちがいありません。「政治的集団形成」であれば、「『主要矛盾』を忘れて『内部矛盾』を拡大するのは賢明でない」とお叱りを受けるところでした。
しかし、このコーナーは、各々の立論の根底にある理想や価値規準のフェアな明示も含め(そういうヴェーバー的意味において)最大限に「価値自由wertfrei」な学問的討論ないし論争の場となることを目指しているはずです。こういう具体的なコンテクストにさしかかったときにこそ、的確な読解のチャンスが生まれると思いますので、ヴェーバー「客観性」論文の一節を、ちょっと長くなりますが引用してみます。「もとより、実践的な政治家にとっては、個々のばあいに、現存する意見対立を調停することが、そのうちのひとつに加担することとまったく同様、主体的に義務をはたすことでもあるうる。しかし、そうしたこと[対立する意見を調停して妥協に達すること]は、科学上の『客観性』とは、いささかも関係がない。『中間派』は、左翼または右翼の極端な党派的理想に比して、髪の毛一筋ほども、科学的真理に近づいてはいない。人が、[自分の党派的見地から見て]不都合な事実および生活の現実を、冷厳な実相において直視しようとしない{後の用語では「知的誠実[廉直]」を実践しない}ときほど、科学の利害が、ひどく損なわれていることはないのである。この雑誌{『社会科学・社会政策論叢Archiv fuer Sozialwissenschaft und Sozialpolitik』}は、数多の党派的見地の総合によって、あるいは、それらの対角線上に、科学的な妥当性をそなえた実践的規範を獲得することができる、という重大な自己欺瞞にたいして、徹底的に闘うであろう。というのも、こうした自己欺瞞は、好んでみずからの価値規準を相対主義的に隠蔽するので、[価値判断に囚われない]研究にとっては、自分たちの教義が科学的に『証明可能である』とする古いナイーヴな[あからさまな{それとはっきり分かる}]党派的信仰に比して、はるかに危険だからである。認識と価値判断とを区別する能力、事実の真理を直視する科学の義務と自分自身の理想を擁護する実践的義務とを[双方を区別し、緊張関係に置きながら、ともに]はたすこと、これこそ、われわれがいよいよ十分に習熟したいと欲することである。」(Gesammelte Aufsaetze zur Wissenschaftslehre, 7. Aufl., 1988, Tuebingen, S. 154-5, 富永祐治、立野保男訳、折原浩補訳『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』、1998、岩波書店、42-3ページ、下線による強調は原文ゲシュペルト、{ } は引用者による今回の付加)
なにか問題を抱えて考えあぐねているとき、なにげなく「客観性」論文のような古典をひもとくと、不思議にもふと開いたページに関連叙述が出ていて解決の糸口が掴める、というのは、ままあることですが、この一節は、どこになにが書いてあるかをだいたい記憶している筆者にも、いま初めて捜し当てて読むかのように新鮮です。ここに示されている人格理想/学問理念をくぐらせて、橋本努氏が創設されたこのコーナーを補足的に性格づけるとすれば、それぞれの理想に生きる自己責任的で(対他者的にも)責任倫理的な自立的/自律的個人が、羽入書によって提起されている(狭くはヴェーバー研究者、広くは歴史・社会科学研究者一般の「生存権」)問題、ならびに、そこから「芋づる」式に探り出されてくるアカデミズム内外の現実の諸問題をめぐり、科学的真理探究という共通の場に相会し、互いの見解をつとめて集約的かつ厳格な討論に委ねて妥当性を競い合う「土俵(アリーナ)」であるといえましょう。なにか「中間」ないし「対角線」上に、「集団的に結集」し、「政治的党派形成」を遂げようとするのではありません。したがって、意見の一致よりもむしろ対立を重んじなければならないでしょう。その意味で、『社会科学・社会政策論叢』の創刊理念(厳密にいえば、『ブラウン誌』から編集を引き継ぐさいに、新編集者ゾンバルト、ヤッフェおよびヴェーバーによって改めて確認され、いわばその「綱領文書」ともいうべき「客観性」論文に表明された「歴史・社会科学専門誌」の理念)に通じるものがあるかと思います。ただ、議論(コミュニケーション/ディスカッション)の焦点が上記のとおり(羽入書を契機とする関連諸問題というふうに)限定されていること、そのかわり、インターネットの利用によって、『社会科学・社会政策論叢』よりもはるかに迅速かつ集約的な議論が、技術的に可能で、保障されていること、この二点がちがいます。
ここで、後者の意義につき、(パソコン文化に遅れて参入した老生ですが)一言述べさせていただきますと、インターネットのホーム・ページの活用により、論考を脱稿してすぐ、その場で、廉価に、全世界に向けて公表できるようになりました。パソコン文化の先輩/ヴェテランには、なにをいまごろあたりまえのことに「欣喜雀躍」しているのか、と笑われるでしょうが、この道具は、論争に生きようとする研究者、とりわけ退職高齢研究者にとって、気がついてみるとまさに恰好です。この道具をフルに活用し、限定されたテーマひとつひとつに議論を迅速に集中し、クリアしていくとき、学問研究にどんな可能性が、どれだけ開けてくるか、たいへん楽しみです。
とくに、人文/社会科学系の議論/論争にとっては、この技術により「講壇価値判断禁欲要請」がいわば「宙に浮き」、それにつれて議論内容の質も変化すると予想されます。周知のとおり、学者が大学の講壇で自分の実践的理想や価値規準/価値判断を表白すべきかいなか、そうすることが許されるかどうか、という問題は、紛らわしいけれども「価値自由」そのものとは別個の、それとは区別されるべき問題です。「講壇では価値判断を禁欲すべきだ」というヴェーバーの立場は、それ自体ひとつの教育政策的価値判断で、しかも大学という場の時代的制約に拘束されていました。すなわち、ヴェーバーは、学生/若者の理想形成/自己形成の自由にたいする繊細な配慮から、理想の一方的な押し付けばかりか「尽力的顧慮einspringende Fuersorge」さえしりぞけ、複数の可能性を開示する「垂範的顧慮vorausspringende Fuersorge」ともいうべきスタンスを採用していました。したがって、もし大学の講壇で価値判断の表白が認められるとすれば、その時代を代表する多種多様な価値規準(複数)が出揃い、学生/若者がそれらの「狭間」で考え、選択することができるばあいにかぎられる、ということになります。ところが、当時のドイツでは、大学の講壇に多様な価値規準(複数)が出揃う保証がなかった、とすれば、そうした制約のもとで、聴講(現在ではさしずめ単位取得)を余儀なくされている学生に、講壇上から自分の理想ないし価値規準を吹き込むのは、勝手すぎる、フェアでない、品位に悖る、むしろ学者は教師として、自分の役割を専門的知識と思考法の伝達、せいぜい「知的誠実(廉直)」(の徳)の育成に限定すべきだ、ということになったわけです。
ところが、インターネットは、当の制約を取り払う技術上の可能性を開きます。特定のテーマについて開設された、万人にアクセス可能なホーム・ページないしはそのコーナーに、当のテーマにかかわる多種多様な価値規準の代表者が、迅速にそれぞれの所見を寄せ、出揃ったところで、集約的に議論を闘わせることができるようになりました。ひとつのコーナーに出揃うのがじっさいには困難というのであれば、各価値規準の表明者/代表者が、それぞれのホーム・ページにコーナーを開設して、相互間で集約的に議論を闘わせ、関与者が任意に複数のホーム・ページにアクセスして「狭間」に立つことができましょう。
そうなってきますと、ホーム・ページのコーナーに掲載される「価値自由」な議論の内容についても、価値評価を交えない事実関係の客観的認識および整合合理的な論理展開とならんで、それらとははっきり区別して、それらの背後にある自分の実践的理想ない価値規準を明快に提示することが、妨げられないばかりか、むしろ義務にもなるでしょう。というのも、そうすることによって、寄稿者において認識と理想との双方が緊張関係において堅持されているかどうか、当の議論が真に(たんに「没価値的」にではなく)「価値自由」になされているかどうか、読み手が検証しながら読むための一方の(実践的理想側の)データを、同時に提供していくことになるからです。
そのようにして、「価値自由」そのものも、「講壇価値判断禁欲要請」の根底にあった、読み手の自由にたいする「垂範的顧慮」も、ともに堅持されたまま、ホーム・ページのコーナーに掲載される「価値自由な」論議中、実践的理想ないし価値規準の提示に割かれるべき叙述の意義と量とが相対的に増大し、論議内容全体も相応の質的変化を被り、それにつれてさらには、実践的理想ないし価値規準そのものを評価する「メタ規準」問題も前景に現れてくるでしょう。なるほど、なにもかもそううまくいくはずはなく、さまざまな「逆機能」問題も発生してくるでしょうが、それらはそのつど、原則的に解決していくほかありません。
以上のようなことを考え、原則を立てたうえで、次回からはふたたび、横田理博氏、牧野雅彦氏ほかの寄稿にたいする具体的応答に戻って、議論を重ねていきたいと思います。(2004年2月27日記)